第2話までは、ふつうの中学生が魔法少女への道を歩み出し、人間に害をなす魔女を倒すという様なよくある展開だと思わせておいて、第3話で実はそうではないということを明らかにする構成の妙がある。
この作品は、魔法少女という、物理法則の埒外にいる存在の物語だと思わせておいて、実は彼女たちが生きる世界はどこまでも現実世界なのだよ、と冷酷な事実を突き付けるのだ。
ゆえに結末も、作品世界の既存の法則を崩さない様に、その中で安らぎのある結末を迎えるようになっている。
本来、魔法少女というのは、奇跡を体現する存在のはずだ。物理法則にとらわれない魔法を繰り出し、覆しえない結末を覆して人々を笑顔に導く。しかしこの作品のおける魔法少女は、そうではない。
確かに彼女たちは、通常の物理法則を無視したかのような魔法を繰り出すことができる。そして、契約時の願いを以って、覆しえない結末も覆す。だがこれには、種も仕掛けもある。
その種とは、あり得ない奇跡を起こすためには、それに見合うだけの対価を要求されるという、現実世界における等価交換の法則だ。
キュゥべえは嘘をつかない。しかし、全ての事実を語っているわけではない。
魔法少女にスカウトされたときに明らかにされることは、魔法少女になれば奇跡も実現できる代わりに、人間に害をなす魔女と戦い続ける運命を受け入れなければならない、ということだ。
これは、ひとによっては、魅力的な条件にも思える。それは物語の主人公になれるということでもあり、世の中のために役立つことだからだ。しかし、魔法少女となることで失うものは、これだけではない。
ひとつ、魔法少女は魔女との戦闘で死ぬことがある。ひとつ、魔法少女の魔力の源であるソウルジェムは、彼女たちの魂から作られる。つまり、体の中に魂は無くなり、あたかもゾンビのように自分の体を動かすのだ。
ひとつ、希望を振りまいた分、誰かの絶望を受け止める。そしてそれが溜まっていけば、ソウルジェムはやがてグリーフシードになり、魔法少女は魔女へと相転移する。
この、嘘ではないが本当でもないという詐術は、現実世界でよく行われることだ。キュゥべえは、あくまで彼女たちの自発的意思で魔法少女を生み出し、その結果訪れる希望から絶望への相転移の中で、自分の目的を果たす。
そんな現実の中の現実とも言うべきトリックが、魔法少女という理想の中に取り込まれている所が面白い。
この事実を鑑みれば、この作品はある意味で、現在隆盛しているライトノベルというジャンルへの、アンチテーゼとして捉えられるかもしれない。
ライトノベルの作品の多くは、読者のあったらいいなという理想像を体現するものだ。例えば、妹が可愛い、幼なじみが自分に惚れている、なぜかハーレム展開など、男の子なら一度は考えたことがある様なシチュエーションが作品に盛り込まれる。
しかし、厳然たる事実として、現実世界においてはそんなシチュは極めてレアケースであり、読者が遭遇することはあり得ない。どんなに理想的に見える世界であっても、現実の法則が世界を支配しているのだよ、ということを、この作品はまざまざと見せつけてくれる。
魔法少女まどか☆マギカという作品世界において、奇跡は確かにある。マミさんは事故で死ななくて済んだし、上条恭介は怪我が治った。だがその奇跡の代償として、魔法少女たちには死より深い絶望が与えられる。あり得ない奇跡の代償は、あり得ない不幸なのだ。
この作品世界の現実に、ひとつの法則を付加したのがまどかの願いだ。過去も未来も、魔女が生まれる前に全ての魔女を倒すという、まどかに関する因果律に矛盾をきたす様な願いのおかげで、希望は絶望に相転移にせず、ただこの宇宙から消えていくのみとなった。
この願いをまどかに叶えさせたのは、ほむらの気が遠くなるような努力だ。しかしまどかが概念となる様な願いを叶えなければ、ほむらの無限ループは抜け出すことがかなわなかった。
はじめは魔法少女の希望を世界の絶望の総量が凌駕し、まどかの救いにつながる未来は訪れない。そして並行世界の因果を束ねていき、世界の絶望の総量を凌駕しうる力をまどかが手に入れれば、その莫大なエネルギーを手に入れるため、インキュベーターが介入するようになる。結局、現状のシステムを変えず、ほむらの望みを叶えることはできないのだ。
そこで思い切ってシステムを変える。しかしそのためには、まどかは人間を辞め、概念にならざるを得ない。魔法少女がその戦いの果てに消え去ることも変わらない。なにもかも、一気に解決してくれるほど、現実は甘くはない。
しかし、確実に救いもあった。魔法少女は魔女にはならない。絶望ではなく、達成感を抱いて死ねる。そして行き着く先は無ではなく、未来の希望を絶望にさせないための場所なのだ。
彼女たちは、希望を抱く者たちが必ず絶望に至らなくても済む世界を作った。その先には、新たなルールを生み出す希望を抱く魔法少女が生まれることもあるかもしれない。
ひとは未来への礎となれる。これもまた、ひとつの希望のかたちなのだと思う。