27日付中国新聞社電によると、河南省政府で文化財の保護・管理を行う部署の省文物局は同日、
安陽市安陽県の安豊郷西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155−220年)の墓と
断定したと発表した。「曹操高陵」内部からは、60代男性のものとみられる遺骨も見つかった。
曹操の墓と伝えられている陵墓はほかにも多く、安豊郷西高穴村の“曹操”高陵を「根拠のない伝承」と
疑う声も多かった。河南省文物局の陳愛蘭局長によると、墓の規模や状況などが当時の記録と合致し、
内部の壁画も後漢末から魏の時代のものと判断できた。
最も有力とされた証拠は、「魏武王」との文字が刻まれた石牌が発見されたこと。
記録によると、曹操は「魏公」ついで「魏王」に封じられた(地位を与えられた)。
死後に贈られた諡号(しごう)は「武王」で、出土した石牌と一致する。
なお、曹操は後に「魏の武帝」と呼ばれるようになったが、
曹操を「武帝」と称するようになったのは子の曹丕が後漢の献帝からの禅譲(位を譲ること)により
皇帝に即位してから。石牌にある「魏武王」は、むしろ曹操が死去した当時の史実に合致しているという。
陵墓の墓室からは遺骨も見つかった。専門家の鑑定によると60代の男性。
66歳で死去したとされる曹操と年齢面でも一致するという。
写真は、「曹操高陵」で発見された副葬品。めのうの装飾品などで、
当時の工芸の水準と美意識を知る手掛かりになるという。
魏・呉・蜀漢が並立した「三国時代」は、語り物や劇などでさまざまなエピソードが
広く親しまれるようにった。それらを集大成したのが「三国志演義」。
民間伝承や三国志演義で曹操は、漢の皇室を脅かし天下をねらう「冷酷無慈悲な敵役」として描かれている。
しかし実際には「すばらしい能力の持ち主で、新しい時代の到来を目指した人物」などの評価が定着している。
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