はとバスは都内でもとても目立つ色合いであり、黄色の車は人目ではとバスと解るくらいです。どこの観光地にいってもはとバスがありいかに勢力を拡大しているのかがわかります。
■はとバスとは(ウィキより)
観光ニーズの多様化が進むと、ボウリングやゴルフなどレジャーを題材にしたコースの新設も行われたほか、大相撲やナイター観戦などをコースに組み込む事例も多くなった。これは、都市部の整備は新たな観光資源の発生でもあるという観点からのもの[8]で、新しいニーズを反映させる企画でもあった。車両面においても、1963年には「スーパーデラックスバス」と称した、座席が後方ほど高くなるシアター形式を採用した独創的な車両が登場している。
さらに、1964年の東京オリンピックにおいては、オリンピックの競技施設を巡るコースのみならず、オリンピックの観戦もコースに組み込んだ「オリンピックコース」の運行も行われた[9]。これらのコースは、オリンピック終了後も施設めぐりコースとしてしばらく運行が続けられた。また、外国人向けのコースについても質的な強化が行われ、蛍狩りから産業施設の見学などが盛り込まれたコースが多数設定された[9]前後して1963年には日本交通公社の外国人向け日本国内ツアー「サンライズツアー」に参画している。
しかし、この頃からモータリゼーションの進展に伴い、乗用車を利用する観光客が次第に増加、定期観光バスの業績を圧迫することになった。また、東海道新幹線の開業と引き換えに夜行列車の大幅な削減が行われたため、「夜行列車の待ち時間を観光に利用」という形態が失われたことから、夜のコースに大きな影響を与えることになった[9]。その一方、首都高速道路や東名高速道路の開通は所要時間の短縮という効果を生み出すことになったが、特に首都高速道路については車窓景観を売り物としたコースの設定にも活用されることになった。特に、1965年に運行された「新東京ドライブコース」は、いすゞBX341PAの車体上部を切断してオープントップバスに仕立てたものであった。
新しい発想のコースも次々と開設された。結婚適齢期の女性を対象として着物着付けやテーブルマナーを学ぶ「ブライダルコース」をはじめとして、受験生向けに大学を回るコースや美容に関係する施設を巡るコースなども開設された。なお、1970年3月15日より大阪で日本万国博覧会が行われたのに合わせ、浜松町の貿易センタービル内に案内所を新設し、期間限定のコースも設定したが、さほどの影響はなかったという。
しかし、万博以後のレジャー志向は高級化が顕著になったため、はとバスでも高級志向のコースを設定することになった。1971年2月に帝国ホテルなどの高級レストランやクラブを周遊する夜間コースとして「ワールドナイトAコース」の運行を開始したのを皮切りに、赤坂・六本木・新宿のクラブを巡るコースが開設された。昼間のコースでも帝国ホテルや「マキシム・ド・パリ」を回るコースが登場している。個性的なコースの開設も、バスに講談師が同乗し、講談名場面を巡る「大江戸ハイライトコース」などが運行開始されている。
車両面については、1971年5月に窓の大きいオリジナル車体を架装した「スーパーバス」が登場した。ロケットのような冷房ダクトを屋根上に搭載し、荷物棚まで省略して窓を拡大したこのバスは、後年の増備で9台にまで増加し、1980年代まではとバスの看板車両としてパンフレットや広告などにも登場していた本社と車庫を、現在の平和島に移転したのもこの頃で、1969年に移っている。
オイルショック後〜バブル期
しかし、1973年のオイルショックは、バス事業者全体にも深刻な影響を及ぼした。はとバスでもコース再編などを行い、走行キロ数の削減に努めた。さらに、地方の若年労働者が地元へ就労するケースが目立つようになり、バスガイド不足が顕在化することになった。はとバスではこれに対し、1972年秋からアルバイトガイドの採用で対応することになった。さらに1975年3月からはアルバイトの定時採用に踏み切り、1977年以降正社員としてのバスガイド採用数が回復するまで続けられた。
1976年の国鉄運賃値上げにより、定期観光バスの利用者数の減少に拍車がかかったことから、特に昼間のコースについては大幅な改定が行われ、コースごとの特色を前面に押し出したコース構成に変更されていった。一方で、貸切バス需要は1974年以降は増加傾向にあったことから、会員制郊外コースの増強に注力することになり、郊外コースはマザー牧場や犬吠埼など、さらに東京から離れた場所へ向かうコースが多くなり、1泊2日のコースも登場した。
東北・上越新幹線の開業した1982年からは定期観光バスのコースの見直しを行い、新幹線利用者をターゲットとしたコース設定を行った。また、車両面でもドレクメーラー製のダブルデッカーを導入、ダブルデッカーは新しい看板車となり、定期観光バス利用者数の増加にも貢献した。1987年にはドレクメーラー製の「ヨーロコメット」を導入したが、これは1960年代のスーパーデラックスバス以来のシアター形式のスーパーハイデッカーであり、はとバスの新たな看板車となった。
また、1983年4月15日には東京ディズニーランドがオープンし、はとバスでは画期的なレクリエーションスポットとして東京ディズニーランドを組み込んだコースを複数設定したところ、大変な人気コースとなり、定期観光バス事業を支える主要な柱の1つとなったのである。1988年10月にはシーライン東京を設立、同社のクルーズ船『シンフォニー』を組み合わせたコースも設定されている。
写真4
canon EOS5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/200 F6.3 ISO100 EV+0
実際乗車したバスです。ピカピカのボディになんとなく速そうなデザインです。
写真5
canon EOS5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/160 F5.6 ISO100 EV+0
実際乗車したバスのフロント。最新型でとても精悍な感じを受けます。
写真6
canon EOS5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/60 F4 ISO100 EV+0
非常にめずらしい、はとバスとハローキティのコラボバス。
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