氷川丸も終わりに近づいてきましたが、今回は最上甲板と艦橋、動力室を紹介致します。
■氷川丸の歴史年表(ウィキより)
1930年4月25日 横浜船渠株式会社(現・三菱重工業横浜製作所)にて竣工。
1930年5月13日 - 5月27日 処女航海 神戸 - シアトル
初代船長の秋吉七郎は「軍艦氷川」と評されるほどの厳格な船内規律を徹底させ、以後氷川丸の伝統となるサービスの基礎を築いた。
1930年 ロンドン軍縮会議の批准書を輸送。
1932年 チャーリー・チャップリンが乗船。
1937年 イギリス国王ジョージ6世の戴冠式からの帰国時、秩父宮夫妻が乗船。
カナダ・ビクトリア港 - 横浜。
1938年 東京オリンピック誘致のため、カイロのIOC会議に出席した嘉納治五郎が帰国時、シアトルより乗船。肺炎により船内で亡くなる。
1939年 宝塚少女歌劇団がサンフランシスコ公演からの帰国時に乗船。
1941年8月 国際情勢によりシアトル航路閉鎖。
1941年 日本政府に引揚船として徴用され、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国。
1941年11月 日本海軍に徴用され、病院船として南太平洋海域にて活動。この頃の様子は1943年に製作された戦記映画『海軍病院船』(日本映画社製作・53分)で見ることができる。山本五十六訪問の様子もあり貴重。
1945年 第二次世界大戦終了後、復員輸送に従事。
1947年 北海道航路に就航 横浜 - 室蘭 - 大阪。
1949年 不定期で外国航路に就航。
1950年 不定期で米国航路に貨物船として就航。
1952年 欧州定期航路に貨客船として就航。
1953年7月 横浜 - シアトル航路に定期貨客船として復帰。
1953年 - 1960年 フルブライト交換留学生が利用[6]。
1959年 宝塚歌劇団が北アメリカ・カナダ公演の渡航に利用。
1960年 運航終了。日本郵船もシアトル航路から撤退。
1961年 横浜港開港100周年記念事業として山下公園前の横浜港に係留される。ユースホステルとなる。
1978年 横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)応援団に銅鑼が寄贈される[7]。
2000年6月15日 係留中の船体から重油が流出。海面約700平方メートルにわたり広がった。
2003年11月 横浜市指定有形文化財の指定を受ける。
2006年10月13日 運営してきた氷川丸マリンタワー株式会社が、営業を2006年12月25日で終了すると発表。
2006年12月25日 営業終了、日本郵船へ管理が移管される。
2008年4月25日 リニューアル工事を行った後に一般への公開を再開。
2010年11月12日〜11月14日 APEC首脳会議開催に伴うテロ対策の為、営業停止。
写真110
Canon PowerShotG10 1/100 ISO200 Pモード
さほど高さはありませんが、最上甲板から船首に向かって撮影しています。
写真111
Canon PowerShotG10 1/25 ISO400 Pモード
艦橋部分、意外と広くてちょっと驚きです。
写真112
Canon PowerShotG10 1/20 ISO400 Pモード
当時としてはかなり強力な動力を得ていたそうです。
コメントはまだありません。