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東北大周遊  平泉中尊寺3

◇評価 10ポイント
◇閲覧回数 6,990
◇登録日
2010年8月19日

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いよいよ中尊寺になりました。ここは世界遺産に登録を何度も申請してい
ますが、あと一息で認定されていない区域です。金色堂が一番有名ですが
ちょっと世界遺産にはなあ・・といった感じです。
中尊寺の詳しいことはわかりませんので、興味があるかたは下記の
ウィキペディアの情報をご覧下さい。

以下抜粋

奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年(1056年)
に生まれた。清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。清衡が7歳の時
、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。清衡の母は安
倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあっ
た清原家の清原武貞と再婚。清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を
名乗ることになる。

つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年
の役で滅びた清原家の養子でもあった。清衡の兄弟に
は兄・真衡(清原武貞と先妻の子)と、弟・家衡(清衡の母と清原武貞の
間に生まれた子)がいた。真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。真衡
の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡は、清衡と異父弟・家衡に3郡
ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じ
た。清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。この一
連の内紛を「後三年の役」と称する。この合戦のさなか、清衡は館に火を
放たれ、妻と子を失っている。


その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当す
る奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清
衡」と称するようになる。清衡は寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任
命され、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館(とよたのたち、
奥州市)から、中尊寺のある平泉に移している。このように、藤原清衡
の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たり
にしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を
造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け
暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により
、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている

写真1
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写真2
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写真3
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