もう少し日本丸です。
帆船は風の力を利用して推進力を得ますので、クルーの能力によって船のポテンシャルを大幅に引き揚げることが出来ます。スキッパーの力が船の船足を左右し、クルーの命の安全をも左右します。無論、ディーゼルエンジンを装備していますが、やはり帆がメインとなります。荒波の中マストに上がり、船を操舵する姿を想像するとわくわくします。
■日本丸の歴史(ウィキより)
古くは文禄の役に参加した大安宅船である九鬼水軍の「日本丸」がある。当時の九鬼水軍当主九鬼嘉隆自らが設計にあたり、元の名は「鬼宿(きしゅく)丸」と呼ばれていたが、その偉容に感じ入った豊臣秀吉により「日本丸」と命名されたといわれる。兄弟船に「波切丸」(なきりまる)など同型艦が数隻有った。異説では、九鬼嘉隆は織田信長の命により世界最初の鉄甲船を数隻作っており、その中の1隻がこの日本丸であるともされるが、この説では信長による命名となる。
大きさは全長は151.5尺(約46m)、全幅29尺(約9m弱)、千五百石積み、百挺櫓で将士・水主(かこ)を合わせて180人が乗り組んだというが、大きさについては全長十五間(約27m)、幅五間(約9m)との異説もある。甲板上に三層の楼閣を設け、大筒を三門備えた当時としては類を見ない巨船であった。帆は順風の時のみに使用し、漕走を主とした。
文禄の役では九鬼水軍の旗艦として数度の海戦に参加しており、『志摩軍記』には朝鮮勢の攻撃を寄せ付けないその偉容ぶりが記されている。同役では多数の船舶が失われたが日本丸は生き残り日本に帰還している。のち鳥羽に回航され、九鬼氏の後に鳥羽城主となった内藤伊賀守忠重によって500石積み60挺立の船に縮小改造の上「大龍丸」と改名された。これ以降は幕府の持舟であった様で、寛永年間の江戸を描いた『江戸図屏風』内の船行列には最大の船として、幕府の船印と船手頭向井氏の旗印を付けた「大龍丸」の姿がある。後に内藤家が断絶した後も、引き続き幕府より預かった鳥羽藩の持ち船として使用され、老朽化のため1856年に解体されるまでほぼ江戸時代を通して残存したとされる。これが事実であれば260年あまりの船齢であったことになる。
一般に木造船の寿命は長くとも20年程度であり、200年以上使用されたとすることには疑点もあるが、実際に200年以上存在した木造船として、関船天地丸(1630年、3代将軍家光の時代に建造され、廃船となる幕末までの230年以上の間、将軍の御座船として存在した。しかも廃船の理由は老朽化ではなく、幕末には軍船として旧式化したためである)の実例があり、維持管理しだいでは200年以上の存続も不可能ではないといえよう。
写真78
canon EOS5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/25 F2.8 ISO320 EV+0
通信長室です。かなり位の高い場所に位置しており、部屋の作りも船長・航海長並に立派です。
写真79
canon EOS5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/80 F4.5 ISO100 EV+0
帆が張っていないとこんな感じで、ちょっとさびしいです。
写真80
canon EOS5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/100 F5 ISO100 EV+0
日本丸に隣接している、日本丸メモリアルパークの外観です
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