この超常現象道場で「即身成仏」と「即身仏」を扱うべきではないのかもしれない。
だがその発想と修行方法は到底並の人間の及ぶところではなく、ある種超常的な領域であると言っても過言ではないだろう。
まず、「即身成仏」とは、仏教において、文字通り肉体を持ったまま悟りの境地に達し仏になるという究極の修行法である。
即身成仏に必要な修行量は過酷という領域を超えている。
例えば、比叡山の千日回峰行は、断食、断水、断眠、断臥といった死と隣り合わせの荒行だ。そのため修行者は前もって生きながらの葬儀を執り行わなければならない。ちなみにこの千日回峰行を終えた者は、記録では47人いるという。
次に「即身仏」について語ろう。
「即身成仏」と「即身仏」はよく混同されがちであるが全くの別物である。
「即身仏」は「死」を前提とした修行法であり、「即身成仏」のそれを遥かにしのぐ。
すなわち、行者が土中に入って瞑想し、そのまま意識的に絶命するのである。
そして、その行者がミイラ化したものを「即身仏」というのだ。
一般的に、仏の偶像とは、金属や粘土、木を使った仏像の事をいうが、
即身仏は、人が自らミイラ化して仏像になるというものだ。
即身仏になることにより、死を超越した永遠の生を獲得するのである。
環境によっては、腐敗しミイラ化できなかったものも多いが、
日本では今でも多くの即身仏が各地に現存している。
古いものでは西暦790年に"入定”した無際大師(總持寺)が、
新しいものでは西暦1903年入定の仏海上人がいる。
その見事なまでの生き様は、
現代を生きる我々に強烈なメッセージを放っているように思われる。