天龍寺続編です。写真2枚目の庭園がとても心が落ち着く場所です。観光客が多くいますが、じっと庭をみていると、喧騒が耳にはいってこなくなるようです。
以下ウィキより
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786年 - 850年)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(
在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の
暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。
写真20
canon EOS7D 24-70mmF2.8LUSM 1/160 F7.1 ISO100 EV-0.7
御一読下さい
写真21
canon EOS7D 24-70mmF2.8LUSM 1/60 F7.1 ISO100 EV-1
何気なく撮影したようですが、かなり悩んで設定を出しています。というのはAPSフォーマットである7Dですと、このレンズはちょっと荷が重く、深度が浅くなっていく傾向があります。絞りこみを一段深くし、露出を一段上げることにより明るさを確保しています。
写真22
canon EOS7D 24-70mmF2.8LUSM 1/30 F5.6 ISO1600 EV-0.7
壁一面に龍の描写があります。硝子がありますので、どうしても写りこみがあります。
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