中尊寺も最終になってしまいました。
今回は、中尊寺で食べましたお食事を掲載してあります。
以下抜粋
中尊寺」の寺号については、天治3年(1126年)の経蔵文書が初出ともいうが、
この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・
西行が康治年間(1142 - 44年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』
所収)に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている。
「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた
多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした。
しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさない
として、これに反対する見解もある
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺と
され、源頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出
された「寺塔已下注文」(じとういげのちゅうもん)という文書が引用されている
。これは、時の権力者に提出する文書として、当時残っていた堂宇を書き出し報告
したもので、当時の伽藍の実態にかかわる史料として信頼のおけるものとされている。
これによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した
「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した
「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」
(大長寿院)などがあったという。中尊寺には、建武4年(1337年)に大きな火災があり、
金色堂を残してほぼ全焼してしまった。
近世の中尊寺は衰退し、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを
見て嘆いたのはよく知られる。近世を通じ、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立
が行われ、寛文5年(1665年)には東叡山寛永寺の末寺に組み込まれている。
1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されて
いた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施された。この結果、中央壇に清衡、右壇
(向かって左)に2代基衡、左壇(向かって右)に3代秀衡の遺体が安置され、右壇に
はさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。1958年には天台宗東北大
本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。1962年よ
り金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年に創建当時の輝きを戻すことになる。
現在は、泰衡の首級桶から発見された種子から発芽し、1998年に開花した蓮の花が
「中尊寺ハス」として境内に植えられている(花弁が現在のものより少し細く、薄いのが特徴)。
写真1
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写真2
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写真3
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写真4
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