もう少し大阪城続きます・・・
■ウィキより
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用し、城内への民間人の立ち入りは禁じられた。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となる。
1870年(明治3年)、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した。
1885年(明治18年)、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名される。紀州御殿は、大阪鎮台の司令部庁舎として利用された。
1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元された。
1928年(昭和3年)、当時の大阪市長關一は天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と天守の建設がすすめられた。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成した。
1933年(昭和8年)、紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称した。大阪大空襲など太平洋戦争中の空襲では、1868年(慶応4年)の火災では被害を免た二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門を焼失、また青屋門に甚大な被害を受けた。特に本土終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下され、近隣の京橋駅も巻き添えとなり、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどだった。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれたが、天守閣は被害を免れた。
写真1
canon 5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/320 F9 ISO100 EV+0
型どおりに撮影してみました。面白くもありませんが、整然とした構図だと思います。
写真2
canon 5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/125 F5.6 ISO125 EV+0
謎の建物再登場
写真3
canon 5Dmark2 24-70mmF2.8LUSM 1/400 F7.1 ISO100 EV+0
近場からは、エレベータが邪魔してベストショットが難しいので随分歩いてこの角度で。紅葉を少しいれこんで季節感も。
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